“地元で育った強み。信頼があったからできた”
準備期間の半年を経て
昭和42年12月5日、“狩の川”という配布無料のタウン誌ができた。
今ではフリーマガジンは見慣れたものとなっているが当時は新しかった。
銀座百点という銀座でも人気のタウン誌を模範にしてできた第1号。
その後、10年間、突然来た最後、昭和52年11月20日発刊の64号まで続いていく。
内容はなかなか衝撃的なトピックスも、
「かっこいい」や「遊び」をテーマにしたり
独特の切り口で沼津の校歌を特集したり。。。
商店街の紹介もインタビューから商品紹介まであらゆる手法で書かれてある。
今読んでも“おもしろい”と読みこんでしまうタウン誌である。
今回この“狩の川”の編集を務めた花村邦子さんに伺った。
沼津へ戻っていた、東京でシナリオライターをしていた花村さんのお兄さん間藤守之さんに
東京の会社から企画としてタウン誌を作らないかと話が合った。
だがお兄さんはそれを断った。
胸の内をきいていみると“自分の生まれ育った沼津。
よそのから入ってきた企画のタウン誌はつくりたくない”と。
その気持ちを聞いた花村さんは兄の気持ちを汲んで“私がお金をだすからつくればいい”と後押しをして始まった。
センター街(現上土商店街)を中心に相談方々、広告を出してくれる会員のお願いにお店をまわった。
あっという間に77件の会員が集まったという。
今までなかったことにこんなにも寛大に応援してくれる。
その理由。
“信頼はすでに親、兄弟が培ってくれていたから”
初めの一歩はもう踏み出していた。
自分の力だけではできなかったと気づいたという。
“お前たちがやるなら応援するよ”
街に人たちの言葉。
そしてなにより花村さん兄妹の力で出来上がった。
スタッフの人数は増え、さらに顧問に映画監督の故五所平之助さん(三島在住)や
執筆にお菓子放浪記の西村滋さん(元沼津在住)や大御所詩人の大岡信さん(三島在住)などの
多くの文人の協力も得ることができた。
時代も変わり10年もフリーマガジンを続けていくことは
大変なこともたくさんあったという。
子供を育てながら編集、取材、そしてスタッフのマネージメントをしながら街を見つめた。
“でもねクラブ活動のように楽しかった”
その言葉がとても印象的だった。
狩の川が花村さんにもたらしたものは
辛さも、苦しさも、楽しさも、すべてものを“かけがえのない経験”にした。
“狩の川は地元の人に育てられたから10年続いた”
と花村さんは言う。
広告で成り立っているタウン誌というのは育ちにくく続けていくことは難しい。
その中で育てられた狩の川。
その当時も会員になり狩の川を支えてた一人である
井筒屋の片岡さんもいう。
“狩の川は沼津の商人の心意気をよく伝えてくれた”と。
“数年後に図書館にファイルされてあることを人から聞いたの。
大事にされてきたことがわかった。やってきてうれしかった”
と花村さんは言う。
実際に今も町には大事にこの“狩の川”を大切にしている人がいる。
今の時代にフリーマガジンを大切にとっている人は何人いるだろうか。
それほどこの“狩の川”がみんなに与えたインパクトは大きく、
そしてみんなに育てられたことが伝わってくる。
“時代が早すぎたの”
花村さんはおっしゃっていた。
私はこの冊子が過去のものには思えない。
それはこの地域の“人”の本質をとらえ感性豊かな内容だからであろうか。
私自身も“狩の川”に出会えたことは嬉しく、刺激的に感じる。
私たちが出しているこの沼津ジャーナルも、
時代を越えて大切な存在になりたいと心から思った。
今も育ち続けている狩野川。
そしてそれを守る街の人たちによって今も育てられていると感じた。
狩の川、図書館で拝読できるのでしたら、
ぜひ読んでみたいです。
かつての沼津を知るために。
ご興味をお持ち頂きありがとうございます。
沼津図書館の二階で閲覧できます。
白隠さんのコーナー付近です。